賑わいを取り戻し、次世代につなげる街づくりを。
私たちフージャースは今日まで、全国各地で再開発事業を手がけてきました。その中でも北海道進出のきっかけとなったのが、今回ご紹介する「函館MARKS THE TOWER」を含む「函館駅前若松地区第一種市街地再開発事業」です。
かつては北洋漁業の玄関口として栄えた函館駅エリアで、2016年3月の北海道新幹線開業に合わせて、もう一度賑わいを取り戻そうとこの再開発事業は始まりました。
今回は、このプロジェクトの中心である代表施行者 の(株)NAアーバンデベロップメントの布村隆二(ぬのむらりゅうじ)さん、岡本啓吾(おかもとけいご)さん、フージャースからは、企画・建築・営業担当、計5名の取材を通してご紹介します。
布村隆二(写真右から3番目)
「函館駅前若松地区第一種市街地再開発事業」の代表施工者である(株)NAアーバンデベロップメント代表取締役。函館生まれ、函館育ち。高校卒業後は札幌の専門学校に進学。卒業後は札幌で勤めるも、家業の測量設計会社を手伝うため35歳でUターン。
岡本啓吾(写真右から2番目)
(株)NAアーバンデベロップメント 取締役。函館生まれ、函館育ち。大学卒業後は神奈川県横浜市にて就職するも、布村さんと出会い「一緒に函館を変えていきたい」と25歳でUターン。
北洋漁業の玄関口
―かつて函館は、どのような街でしたか。
布村
私が小さい頃は、北洋漁業の基地として、漁師さんたちが街にひしめき合い、歩けば肩がぶつかり合うほどの賑わいでした。漁師さんたちは、お金を持っていますから、飲食店はもちろん、函館にはアパレルのテナントもたくさんあって。札幌よりも函館に行った方が良いものが買えると言われていたぐらいです。当時は、駅前に3つのデパートがあり、今回の再開発事業の対象であるWAKOビルもその1つです。
岡本
私もUターンで函館に戻ってきて以来、昔からお住まいの方に話を聞く機会がよくありますが、「WAKOビルに親に手を引かれながら買い物に行った」などという話はよく聞きます。昭和後期に北洋漁業が衰退すると、駅前は衰退し、街の中心は五稜郭のエリアへと移っていったそうです。
時代は変わり風景も変わりましたが、昔から函館に住む人にとって駅前エリアは、賑わいの中心であり、家族との大切な思い出の場所なんです。
はじまりは1軒のコーヒーショップ
―函館駅前の再開発事業はどのように始まったのでしょうか。
布村
話すと長いですよ(笑)
2000年に家業を手伝うためにUターンで函館に戻りました。その直後に仕事を手伝ってもらう予定だった親友に不幸があって、1年間は立ち直れずに泣いて暮らしました。
ちょうど1周忌の帰り道でのことです。突然親友の声が降ってきたんです。「生きている限り、がんばれ」って。そうしたら、体に力が湧いてきて、こんなことはしていられないと。それでUターンで帰ってきた時に見た街の寂れた風景を思い出し、街のために働くことを決めました。自分が街のために何かを残せば、それが親友も生きた証になる。そう思ったんです。
―まずは何から始めましたか。
布村
街のためにと言っても、いきなり大きなことはできません。そして、自分も事業者として街に関わる必要がありました。そこで駅前にあったWAKOビルに目をつけて、その一角でコーヒーショップを始めました。2003年のことです。
その後、私がビルの管理を委託されることになり、2005年には管理会社を創業しました。そして世の中はリーマンショックへ入っていきます。WAKOビルも新しいオーナーへと引き継がれることになりました。この時も私の中には「このビルはいつか駅前再開発の要となるから、思いを持った人にオーナーになって欲しい」という考えがあり、不動産屋と協力して、一緒に丁寧にオーナーを選ばせてもらいました。
そこで兼ねてから自分の中にあった再開発の構想をオーナーに伝えて、責任者として任せていただくことに。その後は、函館市へ相談しにいき、2012年には都市計画が決定。2016年3月の北海道新幹線開業に合わせて、もう一度賑わいを取り戻そうとこの再開発事業は始まりました。
2003年にコーヒーショップを始めてから都市計画に至るまで、9年の月日が流れていました。
函館での再開発事業 決まる
当初、再開発事業は1階〜4階までを商業テナント、5階以上をホテルにするということで計画は進んでいました。しかし、東日本大震災の影響で、ホテルを居住エリアに変更することに。そんな時、私たちフージャースもこの公募を知ります。
企画担当
江口
フージャースは、地方都市での再開発事業の機会を探していました。当時は地方都市で再開発事業を行なっているデベロッパーは珍しく、私たちなら地方都市の中心市街地の活性化のお役に立てると思っていたからです。役員会でも満場一致で今回の公募へ参加を決めました。
布村
フージャースさんに決まったと聞いた時は、北海道では聞いたことがなかったので「どんな会社だろう?」と思いましたが、フージャースさんがすぐに対面でお会いする機会を作ってくださったり、何度も東京の本社で打ち合わせをしたので、すぐに不安はなくなりましたね。
企画担当
江口
契約締結が終わり、初めて布村さんをはじめとする行政や関係会社の皆さんと会った時のことです。皆さんの思いの強さを聞いて、必ずうまくいくという確信が持てました。同時に、北海道新幹線の開通に合わせて街の賑わいをつくるという責任感から、全力でやらなくてはいけない事業だなと改めて思いましたね。
この時に感じた確信や、それぞれの利害がある中で全員が「必ず再開発事業を成功させる」と同じ気持ちでいれたことが、今回の再開発事業が成功できた1番の要因だと思います。最高のメンバーでしたね。
函館の街並みを取り入れる
―こうしてメンバーが揃い始まった再開発事業。「函館MARKS THE TOWER」の住居部分のこだわりを教えてください。
建築担当
神永
今回の再開発事業は、私たちから紹介させていただき世界的な建築家の光井純さんに入っていただきました。駅前の建物だからシンボリックにしたいという思いがあり、商業テナント部分は昔の函館を思い起こさせるような外壁の色合いを、サッシの周りには函館の倉庫と同じ煉瓦色を採用しました。
光井さんは今回の再開発事業にあたって、函館の街のリサーチはもちろん、何度も街歩きをして、今回のデザインに落とし込んでいってくださいました。
また住居部分は、全住戸のバルコニーのデザインを少しずつ変えていて、外から見た時に自分の住戸がわかるようにしたというこだわりがあります。
布村
光井さんとのデザインの打ち合わせには、毎回参加しました。その打ち合わせで方向性を常に共有できていたので、フージャースさんに対して特に要望はありませんでした。
唯一、光井さんにお伝えをしたのは商業部分で、1、2階は街に開いた開口部にしてほしいというお願いをして、それも聞き入れてくださいました。
縁や思いのある方に住んでいただく
―再開発事業を進める中で、苦労した点はどこですか。
営業担当
野口
販売が思うように進まなかったことですね…。
この直前に仙台や石巻で販売をしていたものの、私たちにとっては初めての北海道での販売でした。首都圏なら住宅情報誌に広告を出稿できますが、今回はできません。そこで近隣へのポスティングや新聞広告から露出を進めました。そのあとは、ローカルテレビでのCMや市電やバスのラッピング広告と、手探りで何でもやりました。
企画担当
江口
その甲斐あって最初の2ヶ月間は、モデルルームにたくさんの方が来場してくださいました。でも、契約につながらない。周辺相場と比較して価格が少し高かったことも背景にはあったと思います。
営業担当
野口
正直なところだいぶ行き詰まりを感じていました。
そんな時にメンバーが、ブランド総合研究所の「都市の魅力度ランキング」という記事を持ってきてくれたんです。そこには、京都市を抜いて上位に函館市の文字がありました。
それでターゲットの幅を「函館に来たことがある都心在住者」まで広げることを決めました。ランキングはもちろんですが、近所の人から聞いた話も頭にありました。それは「昔の函館駅前のエリアは活気があって、家族でよく出かけた大切な場所。いずれはそこに住みたいんだよね」という話です。函館駅エリアに思い出を持っている人は、近隣の居住者だけではないと思ったんです。
函館に思い入れのあるIターンやUターンの人を狙うことで、入居後に一緒に街をもっと良くできると思いました。
布村
再開発事業には貴重な税金が使われています。街の未来を考えたら「誰でも買ってください」とは、なかなか言えません。今回、野口さんが販売してくださった方は、道民の方はもちろんですが、道外でも函館が好きで長期休みには函館駅の近隣でマンスリーマンションを借りていた人、1年に一度お節を買うために必ず訪れる人など、どなたも函館に縁や思いのある方でした。これは本当に嬉しかったですね。
完成してからがスタート
こうして無事、2017年2月に地上16階建ての「函館MARKS THE TOWER」を含む、キラリス函館は完成しました。
布村
完成したタイミングで、関係者全員を招いて慰労会をしたんです。市役所、ゼネコンなど40〜50人の人が集まってくれました。気づけば夜もだいぶ遅くなっていて、最後はラーメン屋さんでフージャースさんとラーメンを食べたんですね。
「これでもうお別れなんだな」と思うと寂しくて、みんな同じ気持ちだったのか、全員で泣いていました。仕事で泣くなんて、後にも先にもこれっきりです。苦しいこともあったけれど、本当に楽しかったし、このチームでよかったなと。
再開発は終わりではなくて、ようやくスタート地点に立ったということ。次の世代に向けての舞台は作りましたから、あとは岡本を含め若い世代にバトンを繋いでいきたいと思います。
岡本
今から約12年前、布村さんと初めて会った時、まちづくりをする目的は「次の世代のために」と言っていたのが印象的でした。地域の課題はまだまだあるエリアですが、この場所を作ったから終わりではなくて、この場所を生かして、点を線で継いでいけるよう地域全体で頑張りたいです。
私たちにとって北海道進出のきっかけとなった今回の再開発事業。布村さんと岡本さんと事業を進める中で、関わる人の熱量に徹底的に伴走すること、街が持つストーリーを生かすこと、この2つが再開発事業の成功には必要であることを学びました。これは以降、フージャースが全国で再開発事業を進める中でも活きています。
今回の取材では、約5年ぶりに関係者が現地に集まりました。当日は、布村さんと岡本さんの変わらない笑顔に迎えられ、今回の事業を昨日のことのように話し合い、夜遅くまで話題はつきませんでした。
こんな関係性が、他のエリアでも築けるように。私たちの再開発事業は続きます。