街のストーリー

多様な世代が住み続け、
互いに助け合えるあたたかい街へ。

2022.07

私たちフージャースは、東日本大震災で被災した被災地の再生・復興に向け、各地で再開発事業を行ってきました。住宅の提供に留まらず、商業や防災機能の一体的な整備によって、平時は地域をつなぐ憩いの場所として、有事は災害時の避難場所として利用できるようにすることで、安心安全な住まいを提供しています。石巻市では、これまでに3棟を開発してきました。
今回は、2016年9月に竣工した石巻エリア2棟目の「デュオヒルズ石巻立町」を含む、「立町二丁目5番地区第一種市街地再開発事業」のストーリーです。今回のプロジェクトの主体者である再開発組合の浅野香純(あさのかすみ)さん、フージャース建築担当の古跡匡(こせききょう)の取材を通してご紹介します。

浅野香純(写真左)

1952年岩手県生まれ。石巻で約150年続く不動産屋「本家秋田屋」の4代目女将。今回の「立町二丁目5番地区第一種市街地再開発事業」の発起人。プロジェクトの途中で、再開発事業の理事長だったご主人が亡くなり、ご主人に代わり再開発事業の理事長を務めた。

古跡匡(写真右)

1987年東京生まれ。在学中に、石巻で行われた「学生シャレットワークショップ<震災からまちづくりへ>」をきっかけに「立町二丁目5番地区第一種市街地再開発事業」に関わっていくことに。プロジェクト当時は建築担当。

石巻での再開発事業の決断

―石巻での再開発事業はどのようにして始まったのでしょうか。

古跡

私たちフージャースの再開発事業は、震災があった2011年の翌年4月に仙台に東北支社を開設したことから始まりました。そして2013年のある日、フージャース代表の廣岡がある会合で、都市計画家の石巻再開発プレゼンテーションに偶然立ち合います。そのプレゼンテーションを聞いて、自身が被災地を周った際に見た石巻の壊滅的な状態を鮮明に思い出し、再開発への思いを強くしたそうです。しかし石巻という場所は、戸建て文化でマンションの供給実績も少ない場所です。また遠隔地のため、開発の効率も悪い。けれど、津波で流されて何も無くなった場所に住まいをつくり、いざというときに地域の住民が避難できる場所を作ることは意義があるはずだと。こうして私たちの、石巻での再開発事業が始まりました。1棟目は「石巻テラス」、そして今回お話をさせていただく「デュオヒルズ石巻立町」は2棟目の再開発です。

石巻エリア再開発1棟目「石巻テラス」(2016年撮影)

街がないと生きていけない

―震災後の石巻の様子について教えてもらえますか。

浅野

石巻は、江戸時代から北上川を中心に遠くは盛岡、そして各地から米が集まり、そこから海運を使って江戸に米を運ぶ重要な拠点として栄えてきました。
けれど、東日本大震災では石巻漁港を擁する市中心部(高台を除く)のほぼ全域が津波に襲われ、甚大な被害を受けました。
石巻の中心にある立町商店街で、150年続く不動産屋「本家秋田屋」を営んできましたが、私の家も例外ではありません。私が暮らしている母家は築86年になります。震災当日は約80センチの津波がきました。我が家は奇跡的に、あと1センチというところで浸水はせず、窓ガラスも割れることはありませんでした。けれど、ライフラインは止まり、街は真っ暗で、時間もわからない。自分が生きているのか死んでいるのかもわからない、そんな状態でした。

震災翌日 立町商店街の様子
出所:東日本大震災アーカイブ宮城(石巻市)/提供者 石巻市

―浅野さんが再開発組合を作り、街を復興させようと思ったのは、なぜでしょうか。

浅野

津波から1週間が経過し、まだ街の中は瓦礫で埋め尽くされた状態でしたが、「街がないと生きていけない」と強く思いました。そこで夫と私、そして近隣の方2名とで集まって、「本家秋田屋」エリアを再開発していくことを決めました。
ゆくゆくはこの土地を売って仙台に行くという選択肢もあったかもしれません。けれど、この商店街で150年事業をしてきて、街の人はみんな知り合いです。この場所を離れるという選択肢はないだろうと思ったんですよ。

水が引いた後も 街は瓦礫で埋め尽くされていた
出所:東日本大震災アーカイブ宮城(石巻市)/提供者 石巻市

こうして浅野さん達の再開発への道のりは始まりました。

偶然の出会い

震災後、石巻の街では、急ピッチで復興に向けての動きが始まっていきました。立町でも2011年春頃から復興計画の学生ワークショップが始まり、夏には日本中の大学から様々な専門領域の研究室が集められ、2週間に及ぶワークショップが開催されました。この時に浅野さんたちも声をかけられ、「本家秋田屋」を中心としたエリアもワークショップの題材として取り上げられることになります。そして、偶然にもこのワークショップに大学院生として参加していたのがフージャースの古跡でした。

―この時のワークショップの様子を教えてください。

古跡

2週間の間、ほとんど寝ずに住民の方々と対話を重ねていきました。浅野さんとも何度もお話をさせてもらって。課題の解決につながるまちづくりを提案したところ、皆さんから本当に感謝していただき、今までにない喜びがありました。一方、学生の力では具体的に事業化できないもどかしさがありました。そこで、就職活動では事業を通して石巻に恩返しできる企業を探していたところ、東北で震災復興事業を行っているフージャースと出会いました。

偶然の出会い

このワークショップと並行して、浅野さんたちは「立町二丁目5番地区第一種市街地再開発組合」を組織。理事長には浅野さんのご主人の仁一郎さんが就任します。時を同じくして、古跡はフージャースに入社。今回の再開発事業で建設する建物のうちの1つである分譲マンション「デュオヒルズ石巻立町」に関わることになっていきます。

帰ってきたい街にしたい

ワークショップを経て、再会を果たした浅野さんと古跡。当時ワークショップで作った計画と、現在の完成した姿に大差はないと浅野さんは言います。

―奇跡的な再会を経て、改めて古跡さんにはどのような要望をしましたか。

浅野

古跡さんと再会したときは本当に驚きました。嬉しかったですね。私から古跡さんには、ワークショップの時に話したことと、今の気持ちに変化がないことを伝えました。私たちはこの場所に、帰ってきたくなる街を作りたかったんです。街にはお年寄りがいて、子どもがいます。いろんな世代がいるから、何かあったら助け合える。通常、集合住宅を作ると一斉に入居するので、子どもはある程度の年齢で巣立ち、その後戻ってくることはありません。この場所は、子どもがまた帰ってきたくなる、そして多様な世代がずっと住み続ける、そんな住宅にしたいと伝えました。

―それをどのような形で叶えていったのでしょうか。

古跡

今回の事業では復興計画に基づき、復興公営住宅、分譲住宅、商業エリア、社会福祉施設を作ることが決められていました。そこで建物間のセキュリティを緩やかにすることで、日頃からお付き合いが生まれるような、浅野さんたちが願う住宅の姿が叶えられることになったんです。

―実際に、入居が始まりお住まいの方同士の交流はありますか?

浅野

入居後に、住宅エリアの皆さんとお餅つきをしたんです。復興公営住宅のお年寄りが、分譲住宅の子どもに餅つきを教えて。お餅を作るお年寄り達を見て、子ども達はおばあちゃんは魔法使いだって。私たちがまさに再開発をする前に描いていたイメージそのものでした。

マンションに囲まれた本家秋田屋の庭園で 餅つきが行われた(2022年撮影)

災害に強い街づくり

生まれ育った土地で暮らしたいが、同じような津波被害に遭うことは恐ろしい。その不安を解消するために、コミュニティ作り以外にも、災害に強いマンションづくりにも、私たちは力を入れました。
万が一の津波浸水に備えて、1階には住居を設けず店舗と社会福祉施設を、2階以上を集合施設にしました。また、復興公営住宅と分譲マンションの間に集会室を設けて、住民のコミュニティの場にするとともに、災害時には近隣の一次避難所としての機能も果たすようにもしています。地震でエレベーターが止まることを想定して5階建てにしたのも、あの日の教訓が活きています。

商店街に面した1階は 商業エリアとして計画(2022年撮影)
2階にある集会場は 近隣の一次避難所として指定されている(2016年撮影)

街に明るさを

再開発組合とフージャースの中で、一番悩んだのがマンションの外壁の色でした。

―震災後、ドイツに研修に行き、各地の街を見学されたと伺いました。

浅野

そうなんです。その際に見た街並みが、私の心にはありました。小さい町に様々な色の外壁が並び、それが街並みにあたたかさを作っていました。
フージャースさんはとっても驚いていましたが、私たちは外壁をピンク色にしたいと伝えました。都会では白や黒の外壁のマンションが売れるのかもしれません。でも、明るさを失ったこの町には、もっとあたたかな色が必要だと思ったんです。

―それを聞いたフージャースは、どのように対応したのでしょうか。

古跡

浅野さんの言葉の通り、ピンク色と最初聞いた時、私たちは正直戸惑いました。けれど、お話を聞いていくなかで、本家秋田屋の庭園に咲いている桜が頭に浮かびました。今回のマンションは、この庭園を囲むようにして建設されます。この桜の色に合わせて、淡いピンク色にしたら、どうだろうか。居住者の方だけでなく、この立町商店街を明るくしてくれるのではないかと。

浅野

私たちが譲らなかったので、フージャースさんは大変だったと思います。議論は2ヶ月に及びましたから。でも、様々なピンク色の中から庭園の桜に合わせた桜色を提案してくれたおかげで、街並みにあたたかさが生まれました。帰ってきた時に、心がホッとするんですよね。

庭園の桜に合わせて 外壁を桜色に(2022年撮影)
マンションのエントランスは 桜色を含んだ天然石を使用(2016年撮影)

多様な世代が住み続ける街に

こうして2011年から始まった「立町二丁目5番地区第一種市街地再開発事業」は、再開発組合、石巻市、民間企業それぞれが対話と思考を重ね、2016年9月に無事に完成しました。途中、ご主人の仁一郎さんが亡くなり、その意思を新しい理事長として香純さんが引き継いでのことでした。
1階の店舗には「石巻ASATTE(あさって)」がオープン。石巻まちなか復興の一翼を担おうと、「きょう・あす・あさって、日々の暮らしを、おいしく・豊かに・心地よく」をテーマに営業を開始しました。
そして分譲マンション「デュオヒルズ石巻立町」も2017年2月から引き渡しが始まりました。当初はちゃんと売れるのかという不安もありましたが、発売からわずか2ヶ月で完売。マンションのコミュニティや安全性はもちろん、本家秋田屋の庭園の桜がマンションから一望できることに惹かれて購入してくださった方が多数いらっしゃいました。

樹齢約100年のしだれ桜・ソメイヨシノが彩る 本家秋田屋の庭園(2022年撮影)

今回の再開発事業は、建物を作ったことに留まらず、「街をつくれた」と浅野さんは言います。

浅野

あのまま何もしなければ、街としては衰退の一途を辿っていたかもしれません。でも、再開発が終わって、向かいの床屋のおばちゃんがマンションの子どもを見ていてくれる様子や、庭の桜を楽しみに毎日デイサービスに通ってくれるお年寄り、いろんな人が入れ替わり立ち替わりやってくる様子を見ると、この街を作れて本当に良かったなと思うんです。

浅野さん

浅野さんが最初におっしゃった「帰ってきたい街にしたい」という願いが叶うかは、もう少し先のお話です。今後この場所がどうなっていくのか、私たちも見守っていきたいと思います。

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